日本バイオロジカルズ株式会社
 


第6回NBI対談

NBI対談 第6回
  with 遠藤 滋

Shigeru Endou

ハチソン・ワンポア・ジャパン株式会社
代表取締役駐日代表  

        


遠藤 滋氏 プロフィール

1934年7月 生まれる
1958年3月  慶応義塾大学経済学部卒業
1958年4月  三井物産入社
1960年 米国修業生(イリノイ大学大学院農業経済)留学
1961年~63年 ニューヨーク支店勤務
1963年~69年 本社(食料)勤務
1969年~72年 台北支店勤務
1973年 ハーバード大ビジネススクールPMD短期留学
1973年~76年 本社(食料)勤務
1976年~85年 米国勤務
(ニューヨーク、メンフィス、穀物会社と買収と経営にも携わる)
1986年~89年 駐中国総代表(中国全店の経営)
1990年~93年 香港三井物産社長
1991年~ 三井物産取締役
1993年~96年 食料本部長
1994年 同 常務取締役
1996年 同 専務取締役
1998年~00年 同 顧問
2001年3月~ ハチソン・ワンポア・ジャパン株式会社代表取締役駐日代表に就任

その他、1996年より経団連委員(中国、香港、台湾、ミャンマー、ベトナム、農業など)やGEMS(英投資ファンド)顧問、渋谷工業顧問などを歴任する。2000年7月以降三井物産嘱託として、PBEC(太平洋経済人会議)食料委員会副委員長、日中流通産業発展委員会副主席、農林省農業観測委員会委員、PECC(太平洋経済協力会議)、RISE委員会委員、GEMS社顧問、渋谷工業顧問、佐竹製作所顧問を歴任。2001年3月 上記に加え、ハチソン ワンポア ジャパン株式会社代表取締役駐日代表となる



 
所:
第6回目を迎えましたNBI対談シリーズですが、本日のゲストは、戦後日本の食料産業のパイオニアであり第一人者と云われている遠藤滋(えんどう しげる)さんです。三井物産食料部在籍中(昨年まで専務取締役,顧問)、長年米国・中国・台湾において、大豆をはじめ様々な食料・畜産飼料プロジェクトを手掛けてこられました。現在は、香港/中国最大財閥であるハチソン・ワンポア社の駐日代表としてご活躍です。日本の戦後の食料問題と常に対面してこられた遠藤さんにお話を伺います。
ところで、遠藤さんがこれまで日本の大手商社の食料部門にてご活躍されてきた経緯などを簡単にお話いただけますか。

遠藤:
私が三井物産に入社した昭和30年代前半は、日本は未だ貿易自由化をする前でした。食料部配属の2年ほどは経理をやっていましたが、その後、農業経済学を学ぶために米国イリノイ州立大学の大学院に留学しました。この経験が後々活かされてきたと思います。

所:
戦後から15年を経たその時期にアメリカ留学をなさった訳ですが、日本の戦後経済復興の中、当時の留学生活などはいかがでしたか。

遠藤:
イリノイ州は見渡す限りとうもろこし畑の広がる平地です。ある意味とても清らかな時代でしたし、淡い思い出も多くありますが、私はそこで食糧経済、とりわけ大豆を中心に研究をしました。

所:
会社に戻られニューヨーク勤務となり、また、日本の高度成長の幕開けと共に、日本国の食糧・飼料・畜産等の向上に多大な貢献なされた訳ですが、具体的なビジネスは、どのようなものでしたか?

遠藤:
ニューヨーク勤務では大豆担当となりました。そして、帰国後大豆かすの担当をしたことが、飼料・畜産業界に入るきっかけになりました。社内では10年後の日本の飼料・畜産分野の見通しなどを徹底分析し、ビジネスの可能性を探りました。我々はまだまだ立ち遅れていた日本の畜産産業を育てたい思いで、コンビナートをつくり、原料を輸入・配合するなどして、本格的なインテグレーションづくりに取り組みました。

所:
そのインテグレーションによって、日本の畜産は急成長しました。遠藤さんは、インテグレーションをアジアでも展開し、アジアの畜産の急成長にもおかかわりになりましたが・・・。

遠藤:
我々は畜産インテグレーションを日本だけに留まらせることなく、アジア諸国でも同じ試みをしました。台湾では日本で培ってきたインテグレーションをアーバーエーカというブランドの養鶏や養豚などから始め事業を拡大しました。

所:
ところで、1972年当時は日中国交回復が成就した年ですが、非常に重要な時期に中国・台湾との関係を保ってこられた訳ですが、当時など振り返っていかがですか?

遠藤:
日中国交回復後私は、中国政府に対し2つの提案をしました。ひとつは、品種改良による大豆の増産、二つ目は、搾油工業の近代化による歩留向上。後者だけで実に40万トンの余剰が生じる。これを日本の企業が引き取ることを提案しました。手紙を中国政府に送りましたが、はじめは何の反応もありませんでした。ちょうど中国への経済ミッションに参加した三井物産社長に、周恩来にこの件を催促してもらい話が急展開しました。品種改良と搾油の技術交流会が実現しました。
その翌年でした。ニクソンが大豆輸出禁止を打ち出し、大豆の価格が暴騰し、オイルショックも日本経済を直撃しました。日本のインフレは商社がつくり出したものだという商社問題が沸きあがり、その対応に追われた日々もありました。

所: それは大変な時でしたでしょう。

遠藤:
大相場と小社批判への対応もつかの間、再度米国勤務(1976-85年)となりました。そして、80年代後半に中国総代表として北京での任務となりましたが、中国総代表時代は主に飼料添加物・動物用医薬品・精密化学品などの分野で、中国ビジネスの地固めを致しました。振り返ってみると、60年代から90年代初期まで、米国・中国を軸に日本の食料産業・飼料畜産産業を見ていたということになります。
高度成長も終焉しバブルが崩壊した93年、日本に戻った私の任務は、60年代から展開したインテグレーションの整理です。畜産が製品輸入に転じるということになると、あらゆるものを手軽にする必要がありますから、拡大したインテグレーションを整理する業務に携わることとなりました。60年代のインテグレーションのスタートからはじまり、拡大期を経て整理に至るまで、すべての流れを経験することになりました。

所:
さて、そんな海外畑の長い経験を積まれた遠藤さんですが、日本の今後の食糧問題に対し、また養鶏産業などに対して、どのような見解をお持ちでしょうか?

遠藤:
私は、日本の食糧需要の60%を海外に依存している状態は、決して健全ではないと考えます。技術革新が存在する間は、その業界は成長することを意味します。当然、競争も激しくなり栄枯盛衰の原理で消滅してなくなる企業も出てきますが、云ってみれば、養鶏産業も今後品質改善・安全性の向上など、まだまだ技術革新できる部分が多々あるのではないでしょうか。そこにはブレイク・スルーする要素が必ずあるはずです。それこそバイオがそれらを引き起こす引き金になるのではないでしょうか。

所:
やはり、本格的なバイオの時代の到来と云えますね。さて、恒例の最後の質問ですが、遠藤さんは"たまご"はお好きですか?

遠藤:
戦後何もなかった時代は、たまごは貴重品でした。終戦時、私が夢見たのは目玉焼きです。たまごを毎日でも食べたいと本当に切望したものです。
それに、米国滞在中、私は当時高校生の娘と2人で生活していた時など、前日の雑炊の残りにたまごを加えたり、チキンスープにたまごを入れてよく食べたものです。たまごは、私は大変好んでいます。手軽でおいしい食べものです。

所:
これからも、益々たまごの消費促進にご協力お願い致します。お忙しいところ、本日は、どうもありがとうございました。

以上